生成AIの不安

最近は、AI、特に生成AIというものの使い方に関する懸念や、規制の議論が盛んである。

AIとは、なんぞやということが、完全に分かっていないので、とんちんかんな主張になるかもしれないが、、、どうも不安なのである。

 

私は、人間と他の動物を分ける唯一の ”明確なポイント”、つまり、人間が人間たるゆえんは、考える力を持っていることだと思う。

 

昔、哲学者パスカルは、「人間は考える葦である」 と言う明言を残した。

昨今の風潮をみると、ついに人間が人間たる権利を放棄する時代になったかと思う。

人間はただの葦になってしまうということか?

 

機械(コンピューター)が考えて、機械がこの世の中を動かしていく時代がすぐそこに来ているようだ。

人間界は、コンピューターに計算をさせて大きく進歩してきた。

天気予報を始め、ありとあらゆるところで、我々はコンピューターの恩恵を受けている。

計算をするところまでは、任せていい。だが、考えることまで任せてしまうのは、どうだろうか?

聞くところによると、AIが作成した論文や、報告書、企画書などは、人間の作成したものと遜色ないという。

学生たちが卒業論文をAIで書いて、官僚が答弁書をAIで作る時代になりつつあるということか。

 

今、私が書いている、このようなブログもAIに任せてしまう時代になるのか。

最近は、文章を書くにもなかなか言葉が出てこない。年のせいで脳の衰え(考える力)を感じるこの頃だが、それでも私は断固それを拒否する。

せめて、何を書くか、どう書くか、どう感じているかは、自分が考えて決めたい。

 

ところで、AIは、将来的には、人間の持っている感性も取り込めるのだろうか?

例えば、AIは、季節の移ろいを感じる俳句も作れるようになるのだろうか?

 

それにしても、自治体まで、AIの導入をきめたところがある。

作業の効率化を狙っているのだろうが、問題はないのだろうか?

マイナンバーカードでも、これだけトラブっているのだ。

大変なことにならなければいいと心配するばかりである。

 

そして、全てAIに任せて、徹底的に無駄をそぎ落としていった時、人の役割はどうなっていくのだろうか?

 

考える機械が一人歩きを始めて、人類を淘汰してしまう、恐ろしい時代にならなければいいと思う。

そう言えばそんな近未来の映画があった。ターミネーターとか言う。