昔の新聞コラムから

毎年スケジュール用の手帳を買い替えてきた。

そして手帳が新しくなっても、変わらず手帳のポケットに挟んである小さな新聞記事がある。いつの年の記事かはっきり覚えていないが、相当古い記事の切り抜きなので、かなり色あせている。何故か捨てられないで毎年新しい手帳に滑り込ませていた。

今回はその記事を紹介しようと思う。

以下は作家の”水上勉”が新聞コラムに書いたものである。

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言葉と言うものは自分の血脈に溶け込んだものでなければ、逃げていきますよ。

草木には枝がありますが、枝だけ見てモノを語ると山よりヨモギのほうが高く見えることがあります。根のところから話すとやっぱり山の方が高いんですね。世の中、薄っぺらな知識や枝葉のところで勝負する時代になりました。ですから、よう間違いますわな。

九つのとき、若狭から京都の禅寺に小僧に出されました。そこの和尚が、無学だったという中国の禅師、六祖慧能(えのう)の言葉やいうて私にいつも話してくれはった「人間、モノを持つな、持ったらしんどい。本来、無一文や」と。

こども心に、いつかその人のお墓に参りたいもんやなあ、と宿題になっとりました。そのお墓についこあいだ行ってきたんです。国恩寺という江南省にあるお寺です。一日中線香と参拝者の絶えないお墓で、わたしは涙にくれました。

そのとき、村の山道で天びんで荷を運ぶ女の人に出会った。前のバケツには石ころが一つ、荷はうしろのバケツにあるんですよ。おしりでリズムをとりながら動きが絶妙なんですな。

重い荷物を持ってこの石段、あの坂道を登らなあかんと思うたらもう一つバケツに石入れて、おしりを振って拍子をとれば登っていけるんです。慧能さんはそんなことをささやいているんじゃはないでしょうか。

日本に文明というものが入ってきて百年、子どもを東大に行かせることが勉強させることだと思って、そんな枝葉のことが勉強やと思うとった。

わたしらはひょっとしたら根のところを忘れてしもうたんやないか。たとえば天びんで荷を運んでいた、あのおばさんの絶妙な身のこなしのようなものを。作家・水上勉

===========(全文そのまま)===========

ふだん、手帳にこの記事をはさんでいても、折に触れ読み返しているというわけではない。ヘタすると毎年新しい手帳に差し替えるときだけかもしれない。だが、何故か気になって、捨てられずにきた。

今年からブログを始めてみて、話題が途切れて、さあ次は何を書こうかと悩んでいる時、この記事を思い出した。だからと言って、自分が書くブログが、枝葉かどうかなんて考えているわけではないし、うわべの知識だけで云々、なんて大袈裟なことを言うつもりはないが。

ただ、ここに一度載せておけば、来年の手帳にははさまずに捨てられるかもしれない。