古き良き時代のアメリカ 心象風景その4 国境での仕事

エルパソでの私の仕事について少し述べてみたい。前に書いたようにアメリカとメキシコではNAFTA協定によって、メキシコで生産した製品をアメリカ側で販売する際には優遇税制が適用された。

私の勤めていた会社は電子部品を製造販売する会社であったが、この制度を利用して、メキシコ側のファーレスに工場を進出させ、そこで製造した製品を全米の顧客に販売していた。

そして、顧客の細かい注文ごとに一々製品を通関輸入処理をすることは、極めて不合理であったし不可能であった。そこで、まとまった量の製品を一括処理して輸入し、エルパソ側に設けた倉庫に保管し、そこから各顧客の注文に対応していたのである。

私の仕事はその倉庫兼事務所で、全米の各営業所から来る注文を処理し、品物を発送することと、注文状況に応じてファーレスの工場に製造を手配することであった。

詳しい仕事の内容を説明すると紙面がいくつあっても足りないのだが、この倉庫兼事務所では、現地従業員はおらず、私一人で全ての作業を行っていた。

人間、崖っぷちの状況に追い込まれても何とかなるものだ。情報のやりとりは固定電話だけである。今では信じられないことだが、PCも携帯電話もなかった。FAXもまだ無かった時代である。フォークリフトの運転はやりながら覚えざるをえなかった。

電子部品と言っても、スピーカーやモーターに使われるマグネットなので極めて重量のある製品であった。40フィートの大型トレーラーが重い製品で満杯になる時もあり、アメリカ側のトラック配送会社にとっては、私は最重要顧客であった。

従って、私の英語がおぼつかなくても、トラック配送会社のセールスマンがひっきりなしに通ってくるのである。彼らは皆ヒスパニック系で、陽気で、英語もスペイン語もペラペラであった。

実際、私の日常の会話は、全米各営業所からかかってくる現地の営業部門との電話のやりとり、この地元のトラックセールスマン達との会話、そして各トラック会社のディスパッチャーと言われるトラックの配送担当者、トラックの運転手達との会話が殆どであった。私の英語は彼らの”忍耐”によって少しづつ上達していったのである。

家族が来るまでの六か月間は、私は日本語を話す機会はあまりなかった。時々、他の営業所やメキシコ工場に赴任している日本人社員から電話があると嬉しかったものである。

さてエルパソでは日本人家族は私たちだけだと書いたが、ファーレス側には同じ会社から7組の日本人家族が工場を維持するために赴任していた。

当時は彼らは、労働ビザの関係でアメリカ側に住むことができなかったので、ファーレスで最高級とされるアパートを一件まるごと借りていた。しかし、設備も環境もエルパソと比べたら雲泥の差であった。

かろうじて、備え付けの家具がメキシコらしい重厚なものだったと記憶している。車も一家に一台持っていたが、中古の年代物のアメリカ車しか手に入らなかった。当時の海外勤務はどこもそのような過酷な環境下であったのだと思う。

その点、エルパソ側に住むことができた私は幸せだった。私は週に一回程度ファーレスの工場へ行き情報交換していた。日本人が国境のイミグレーションを超えていくことには特に問題は無かった。ファーレス側からも、日本人の家族が週末にはエルパソへ買い物に来ていた。

私たち日本人はとにかく日本語の活字に飢えていた。時々日本から送られてくる雑誌や本を回し読みしたり、3日遅れでエルパソ事務所に届く日経新聞を隅から隅まで読み漁ったものである。

そして、飢えていたのは、日本語の活字だけでは無かった。生の魚が皆無であった。海まではどっちを向いても何百キロとあるのだ。スーパーにはナマズは売っていたがどう調理していいかわからず、手を出す気にもならなかった。

唯一ブラックバスという淡水魚をメニューに載せるレストランがあった。何とも淡泊な味だったと記憶している。しょう油を忍ばせて持って行って密かにかけて食べていた。アボカドを薄くスライスして、わさび醤油で食べると、刺身を食べている気になると言われ試してみたが、全くそうは感じなかった。

f:id:chikoriku69:20200711143653p:plain

当時の倉庫兼事務所のあった所。建物は新しくなっているが雰囲気は同じ。