古き良き時代のアメリカ 心象風景その7 次の赴任地へ

エルパソでの生活が3年ほど過ぎたとき、私はLA(ロスアンジェルス)への転勤を命じられ、家族と共に移動することになった。その時には、わが家には2番目の子(息子)が増え、3歳の娘と1歳未満の息子の4人家族になっていた。

赴任から3年も経ち、最初にこの街に赴任してきた時の高揚感が薄れ、この小さな街では、行くところも限られており、毎日の生活に惰性が出てきたころのタイミングでもあった。

LAでの新しい仕事は、エルパソでのそれとは全く違い、アメリカ西部地区の名だたる電子機器メーカーへ自社の電子部品の営業を展開する内容であった。

LAには、国際空港近くのビルの一角に、子会社としてのアメリカ法人の営業拠点があった。私は日本から出向してきている仲間たちや、現地雇用のアメリカ人社員に加わり、その営業所で働くことになったのである。

LAでの生活は、エルパソと比べると本当に天国だと思ったものだ。

勿論、一人きりの活動から解放されたこともあったが、LAには日系社会があった。日本のレストランがあり、スーパーには日本の惣菜が山ほど並んでいた。魚も刺身も、新鮮な魚介類があふれていた。又、ケーブルTVが日本語のチャンネルを放送していたし、現地発行の日本語の新聞も発行されていた。

結局、私は娘が8歳、息子が5歳になるまでの次の5年間を、その西海岸の都会で過ごすことになったのだ。

仕事は別にして、駐在員の生活と言う面では、LAでの5年間は快適であった。反面、私はエルパソでの苦労と経験を、40年ほど経った今でも、懐かしく、しかも鮮明に思い出す。それは、初めての異国の地での仕事と生活が、大都会ではなく、テキサスのいなか町だったからだと思う。

そして、私の海外勤務の仕事は、その後、シカゴ、シンガポールと断続的に続き、エルパソ時代から数えると13年以上にも及ぶことになる。

このエルパソでの3年間に、仕事や生活で関わった人々との交流と、経験した全てのことが、アメリカの古き良き時代の心象風景として、私の心に今でも強烈に残っている。そしてそれは、自分のその後の人生に大いに影響してきたと思うのだ。

さて、ここまで書いてきた内容は、40年ほど前の、私がまだ20代後半だったころのことである。よくそんな昔のことを細かく覚えていたものだと自分でも感心するが、実はいざ書き始めると、不思議と次から次へと、当時のいろいろな出来事が浮かんでくるのだ。それだけ初めて触れたアメリカの文化が、新鮮で、強烈で、記憶のひだに引っかかっていたということであろう。

今では、エルパソの街は人口も増え、街の様子もだいぶ変わったのだろうと思う。ファーレス(メキシコ側)はかなり物騒な街になったと聞く。ただ、グーグルのストリートビューで見る限り、当時の面影は残っているし、懐かしい街並みも散見する。いつか、またこの街を訪れてみたいものだが、、。

 

(追記)

人は歳を取ると、昔の記憶が美化されるそうだ。つまり、昔の話をする際には、都合の悪い汚点や恥辱をきれいに忘れる傾向があるらしい。私がここまで書いてきた内容も多分にその傾向があるのかもしれないと、ふと考えた。しかし、このブログを始める際にどこかで書いたように、それはある意味、ブログと言うものの特性だと理解してもらいたい。

f:id:chikoriku69:20200728143412p:plain
f:id:chikoriku69:20200728141533p:plain
エルパソは、とにかく道が広い