下咽頭がん顛末記(5)そして、がん摘出手術

(続き)手術までの流れと術後の経緯

ところでT大学病院のC先生は食道外科の先生であり、私の下咽頭がんの手術には頭頚外科の先生が主治医として担当する必要があるとのことだった。

C先生の紹介で今後は頭頚外科のD先生が私の主治医として担当し、二人の先生が連携しながら治療を進めてくれることになった。

しかし問題が一つあった。手術の日程が翌月末まで決まらないのである。通常、大病院は担当診療科によって手術を行う曜日が決まっている。

頭頚外科も食道外科も当面の手術スケジュールが埋まっており、すぐ私が手術というわけにはいかなかった。

ということは、最初にがんが発覚してから2か月半以上も経過することになる。その間のがんの進行が心配だが待つしかなかった。もう後戻りはできない。

手術の日程が決まらないので、悶々とした日々がしばらく続いていた。

当時、私にできたことは、病気平癒の祈願に近くの神社を回ったりすることぐらいであった。

そんなある水曜日、D先生から電話がかかって来た。なんと幸いなことに、来週の手術のスケジュールに空きが出たという。そして急遽、翌週の水曜日が手術日と決まったが、それからはバタバタの日々であった。

週末には洗面具や上履きなど入院に必要な小物を購入した。

月曜日には病院へ赴き、D先生からの手術にあたってのインフォームドコンセプト、更には、麻酔科医からのインフォームドコンセプトを受けた。更に、事務方からは入院にあたっての注意事項、説明があり、翌火曜日に入院、水曜日の手術となった。

実際の手術はC先生も立ち合い、共同での手術ということになった。

あまり詳しい内容はわからないが、広範囲に広がっているがんの部分粘膜をはがしていく内視鏡手術で、私のケースでは、食道外科と頭頸部外科との共同作業となったのである。

 

<幸運その4> 手術と術後の経緯

14時開始予定の手術は遅れに遅れて17時頃にずれ込んだ。手術室に入ってからの記憶はあまりない。何人かの医師や看護師たちに囲まれながら手術台に横たわった。

立ち会っていた若い医師が「今日は今年一番に忙しい日でしたね」などと話していたのを聞きながら麻酔で意識が無くなっていった。

そして、予定時間を大きくオーバーして2時間以上かかった手術は、19時過ぎに終了して病室へ戻って来たようだ。

当然であるが手術は痛かった。勿論麻酔が覚めたあとのことであるが。D先生から頬を叩かれて「終わりましたよ!」と起こされた記憶がうっすらとある。

そして意識がはっきりしてくると、喉の奥が燃えるように痛く、呼吸も相当苦しかった。当たり前である。何しろ喉の粘膜を広範囲に剥がしたのである。

妻の「また明日来るね」という言葉が聞こえたが、痛みと苦しさで返事をするどころではなかった。

やがて、少し落ち着いてくると、体中に色々なチューブが付いているのがわかった。酸素マスクも付いていたがあまり効いていないのではと感じた。

そしてあとでわかったことではあるが、尿も自動的に排泄されるようにチューブが繋がれていた。あの手術室の中にいた誰が繋いだのだろうか。妙な気持になった。

翌朝、昨晩ほどではないが、のどの痛みはかなり残っており、それに加えてタンがひっきりなしに絡んでくるのに悩まされた。しかしながら、お昼までには殆ど全てのチューブが取り外された。

あの尿管も。看護師が私を立たせ、下から引っ張ったら簡単に抜けたのだ。

結局、体に残ったのは流動食を流す為に鼻から挿入しているチューブと、点滴用に左手首に刺したまま留めている注射管だけになった。

歩くことも問題なかったが喉の痛みと痰の絡みは相変わらずだった。

3日間、文字通り、飲まず食わずの入院生活が過ぎていった。喉の手術後の傷を守る為である。

ところで、声を出すのには苦労した。

一生懸命声を出そうとしても、押し殺したような声がかろうじて喉の奥から出てくるのだが、それでもD先生は声が出てよかったという。

取り敢えず声帯はまもられたのだと安堵したが、普通に声が出せるようになるのには、それから何日か経過してからである。(続く)