リー・クアンユーのシンガポール

以前、不思議な国シンガポールという記事を書いた。

今回はこのアジアの<超優良国>を作った人物について、私なりに思うことを少し書いてみたい。

私自身、20年前になるが、少しの期間、シンガポールに住んでいたことがあって、この国の目覚ましい発展に非常に興味がある。以下は私の私見として読んでほしい。

 

実際、この国は目に見えて、変化・発展を続けてきている。

私が住んでいた頃と比べても、大きく変貌したようだ。

 

 

チャンギ空港を徹底解説!話題の観光スポット「ジュエル」から ... チャンギ国際空港、複合施設「ジュエル」の起工式を実施 完成は ...

 

私が何度も利用したチャンギ国際空港は、今は大きく様変わりし、世界的には「ベスト空港」のタイトルを連続して獲得しているそうだ。

アジアの中心にある大きなハブ空港である。

私がいた頃は、それなりに清潔感のある大きな空港ではあったが、一歩外へ出ると、正面に野ざらしの駐車場があり、その周りに南国特有の木々が立ち並ぶといった、南国特有の雰囲気の空港であった。

 

さて、シンガポールの建国の父は、初代首相のリー・クアンユー李光耀)という人物である。

リー=クアンユー

シンガポールという国ができたのは、第二次大戦後20年もたってからで、まだ国としては若い。

日本では、初めてのオリンピックが開催された翌年であり、つまり、日本の新幹線や東京タワーなどとほぼ同じ時期に、シンガポールという国が産声をあげたのである。

 

1963年にマレーシアが、イギリスから独立を果たした時、シンガポールはマレーシアの一つの自治州に過ぎなかった。

その時、シンガポールを首相として率いていたのが、リー・クアンユーであった。

だが、独立後のマレーシアの中で、シンガポールは、リー・クアンユーが思い描いていたようにはならなかった。

中華系住民と、マレー系住民との折り合いが悪く、中華系人民の多くを有するシンガポールは、イギリスからの独立の2年後にマレーシアから追放される形で、シンガポール共和国として”更に”独立することになるのである。

この時、リー・クアンユーは泣きながらシンガポール国の独立宣言を行ったという。

太平洋戦争が終結してから20年も経った1965年のこと、歴史的にはつい最近のことである。ちなみに、戦時中は日本軍に2年ほど占領されていた歴史もある。

そして、驚愕するのは、それからの発展がとにかく目覚ましいことだ。

なにせ、東京23区と同じくらいの国土しかない、小さな、小さな島国である。

私は、初めて赴任したアメリカのテキサスで、国の力というものは、国土の大きさだと実感したと以前書いた。(<古き良き時代のアメリカ>記事参照)

しかし、国の力は、国土や資源がなくても、政策と将来ビジョン次第でなんとかなることを、リー・クアンユーが証明してきたと、私は考える。

水ですら隣のマレーシアからの供給を受けている、資源のない国が、今や、多くの部門で国際ランキング上位にある超優良国に位置づけられている。

 

以下はウイキペディアよりの抜粋である。

シンガポールは、教育、娯楽、金融、物流、製造・技術、観光、貿易・輸送の世界的な中心である。多くの国際ランキングで上位に格付けされており、世界で最も安全な国、世界で最も競争力のある経済、3番目に大きい外国為替市場、3番目に大きい金融センター、2番目に混雑するコンテナ港湾。2013年以来『エコノミスト』は、シンガポールを「最も住みやすい都市」として格付けしている

 

 人口の90%が家を所有している豊かな国である。もっとも、その殆どの人が公営住宅に住んでいる。その公営住宅は、政府主導で建てられ補助金も出る。

つまり、戸建ての家はほとんどない。人口密度の高いシンガポールの工夫であろう。

街が汚れるから、チュウインガムは禁止、蚊による伝染病を防ぐ為に、みだらなため水は禁止、等、およそ普通の国では管理できないことでも、徹底的に管理コントロールしてきた。

 

さて、小さなシンガポール村(?)が、いまや、世界で超のつく優良国になった理由は、いろいろあると思うが、主たるものには、次の3点があげられると思う。

1)リー・クアンユーという人物の、強力なリーダーシップと政策を実行するための、ほぼ独裁とも言える政治システム

 =リー・クアンユーの率いた政党PAP(人民行動党)による強力な政治体制。

  つまり、ほぼ一党による独裁的な強権政治と未来を見据えた長期政策。

2)国の地理的特性を生かした具体的な将来ビジョンの設計

 =ロケーションがアジアの中心にあり、港湾整備や空港インフラの整備で、世界の           物流や人流の中心であり続けたこと。

 =また、その地の利を活かし、エレクトロニクスを始め、多くの製造業を誘致し、結  

  果、輸出が経済を支えるようになっていったこと。

 =何もないところに観光資源を育成し、観光産業を大きな柱として育てたこと。

  マーライオンはその最たる象徴である。このライオンのあたまと魚を合体させた奇

  妙なシンボルは、シンガポールを代表する観光資源になった。

 (実際見てみると、がっかりする人の方が多いとは思うが)。

  そのほか、巨大カジノ産業の誘致や、船を屋上に乗せたような独創的なホテル、

  世界最大の観覧車を始め、観光客をこれでもかと飽きさせない諸施設の建設。

 

ところで、私はそのリー・クアンユーに一度会ったことがある。

いや、会ったというのは、いささか言い過ぎで、同じレストランで、近くの席に見かけたと言うべきか。

そこは、極めて庶民的な日本食レストランであった。2002年、私がシンガポールに赴任して二年目の頃だったと思う。

2002年と言えば、シンガポール建国から36年ほど経っており、リー・クアンユーも70代後半だったと思う。だいぶ年老いて、お付きの人がいた。

だが、すでに首相は退いていたとは言え、依然、政治に深く関与しており、まだ精悍な顔つきは内包する強い意志を感じ、いかにも、逆境にめげずに国を導いてきた人物という、私の印象であった。

 

私の生きている時代に、まさに、一つの国が生まれ、そして発展し続けている。

昔、少し関わった身として感慨深く、親しみを持って、その変貌ぶりを見ている。

 

 

 

私の武器は私の未来

「私の武器は私の未来」

何かのドラマで使われていた、こんな言葉が印象に残っている。

若い人には、まさにピッタリの、希望が持てる、いい言葉だ。

さて、翻って私の場合はと考えると、いろいろと考えてしまう。

なにせ、一般的には、高齢者には、未来はあまり残っていないのだ。

 

そして、私の来年の予定が、もう埋まり始めた。

それは、どちらかと言うと積極的な行動予定ではなく、病院での検査というやむを得ない予定で、自虐的になりがちだが、実は、そうではない。

何故かと言うと、、

先日、東京の大学病院で、下咽頭ガンの手術から4年後の定期検査を受けてきた。

このブログを始めるきっかけとなったガンである。

検査結果は、特に問題はなかった。

そして、来年が5年目の経過チェック(造影CTと内視鏡検査)となり、問題なければ卒業(寛解)となり、私はこの大学病院から離れることになるのだ。

担当の先生には、「来年が卒業試験です」と言われた。

だが、同時に、下咽頭ガンに罹った人の50%が食道ガンに罹るとのショッキングな情報も聞いて、引き続き、地元での定期的な検査が必須とのことだった。

つまり、私の未来は、病気と折り合いをつけながらも、まだまだ続く。

 

ところで、わたしはサミュエル・ウルマンの青春という詩が好きだ。

有名な詩なので、知っている方も多いだろう。

 

=青春= サミュエル・ウルマン

青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。

優れた想像力、逞しき意思、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。

年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。

歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。

(中略)

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる

人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる

希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる

 (後略)

 

ということで、まだまだ、若い者には負けないぞ的なことを言いたかったのだが、

あまり関係ないか。

 

 

生成AIの不安

最近は、AI、特に生成AIというものの使い方に関する懸念や、規制の議論が盛んである。

AIとは、なんぞやということが、完全に分かっていないので、とんちんかんな主張になるかもしれないが、、、どうも不安なのである。

 

私は、人間と他の動物を分ける唯一の ”明確なポイント”、つまり、人間が人間たるゆえんは、考える力を持っていることだと思う。

 

昔、哲学者パスカルは、「人間は考える葦である」 と言う明言を残した。

昨今の風潮をみると、ついに人間が人間たる権利を放棄する時代になったかと思う。

人間はただの葦になってしまうということか?

 

機械(コンピューター)が考えて、機械がこの世の中を動かしていく時代がすぐそこに来ているようだ。

人間界は、コンピューターに計算をさせて大きく進歩してきた。

天気予報を始め、ありとあらゆるところで、我々はコンピューターの恩恵を受けている。

計算をするところまでは、任せていい。だが、考えることまで任せてしまうのは、どうだろうか?

聞くところによると、AIが作成した論文や、報告書、企画書などは、人間の作成したものと遜色ないという。

学生たちが卒業論文をAIで書いて、官僚が答弁書をAIで作る時代になりつつあるということか。

 

今、私が書いている、このようなブログもAIに任せてしまう時代になるのか。

最近は、文章を書くにもなかなか言葉が出てこない。年のせいで脳の衰え(考える力)を感じるこの頃だが、それでも私は断固それを拒否する。

せめて、何を書くか、どう書くか、どう感じているかは、自分が考えて決めたい。

 

ところで、AIは、将来的には、人間の持っている感性も取り込めるのだろうか?

例えば、AIは、季節の移ろいを感じる俳句も作れるようになるのだろうか?

 

それにしても、自治体まで、AIの導入をきめたところがある。

作業の効率化を狙っているのだろうが、問題はないのだろうか?

マイナンバーカードでも、これだけトラブっているのだ。

大変なことにならなければいいと心配するばかりである。

 

そして、全てAIに任せて、徹底的に無駄をそぎ落としていった時、人の役割はどうなっていくのだろうか?

 

考える機械が一人歩きを始めて、人類を淘汰してしまう、恐ろしい時代にならなければいいと思う。

そう言えばそんな近未来の映画があった。ターミネーターとか言う。

 

 

マイナンバーカードで思うこと

マイナンバーカードの保険証との紐付けに関し、システムのトラブルが多発している。

私に言わせれば、これは、ある程度予測できたこと。

いや、むしろ大多数の人が、”やっぱり” と思っているのではないか。

日本のIT産業は、この社会のデジタル化を進めるほど成熟していない、と感じている。

町の役所の、担当者とのやり取りからもそう感じる。

大手の銀行だって、何度もシステム障害を起こすトラブルが絶えないではないか。

そして、何年か前の消えた年金の問題、、、、。

世界に冠たるスーパーコンピューターはある。IT産業(主に若い人たち中心の)は育ってきているのだろう。

だが、それを庶民レベルまでおろしてくると、我々が恩恵を受けている実務社会が、それに追いついていないのだと感じる。

それでも、国会(自民党)は従来の保険証を廃止して、マイナンバーカードへ移行させることを賛成多数で可決した。

賛成票を投じた議員さんたちの ”何人が” このシステムを真に理解しているのだろうか。(普段からPCを使いこなしている議員さんは何人いるのだろうか)

保険証が廃止される来年以降が本当に心配だ。

 

さて、翻って、私はアメリカのソーシャル・セキュリティ・ナンバー(SSN)というものを持っている。アメリカで働き出した時に、取得した10桁の番号である。

これは、アメリカ政府が給与にかける税金(所得税)を管理するための番号だと理解している。

戸籍制度のないアメリカではこのSSNが唯一の個人を確認する番号になる。

私が持っている手元のカードは、40年以上前に取得したものだからか、ラミネート加工もされていない、1枚のただの ”紙” のカードである。

そしてこのSSNは、私が日本に帰国して20年経った今でも、私を確認する番号として、まだ ”生きている” のだ。

何故なら、SSNは年金を管理する番号でもあるからだ。

つまり、私はこの一枚の紙切れによって、僅かではあるがアメリカの年金の恩恵を受けている。(アメリカは皆保険制度はないので、この番号が保険証と紐付けられているわけではないのだが)

勿論、私が取得したこのカードは40年以上前なので、今では形態が全く違うのかもしれない=でも、私の番号は今でも有効なのである

移民大国アメリカである。手元の粗末な紙切れのカード一枚で、税金と年金が管理されているって不思議ではあるが、素晴らしいではないか。

 

今の日本政府のマイナンバーカードのドタバタから、私が感じていることである。

私の前立腺ガン(3) =外照射と副作用=

=続き=

前回、小線源治療を行ったところまで書いた。

そして、小線源治療の約一ヶ月後に、放射線を体の外から当てる外照射治療をスタートさせ、数日前にやっと一連の治療が終了した。

つまり、トリモダリティ(ホルモン治療x小線源x外照射)の終了である。

外照射は、前立腺自体に ”3Gy(グレイ)”を15回、そして、私の場合、リンパ転移の可能性も心配されたので、膀胱内の骨リンパへ”2.5Gy”を15回行った。

整理すると、

①埋め込んだ小線源による内からの照射 =今も続いている。

前立腺への外照射 =15回(15日間)先日終了

③膀胱内のリンパ部への外照射 =15回(15日間)終了

ということになる。尚、②と③は実際には、同時に行った。

外照射は、私の場合、VMAT=回転式強度変調放射線治療=(難しい)という方式だった。

簡単に言うと、大きな機械がゆっくりと体の周りを回転し、強度を変えながら、患部に放射するということ。

こちらは、台の上でただじっと寝ているだけだ。時間にして5分程度、しかも何も感じないので、治療自体は楽なものだった。

ところが、楽ではないのが、副作用である。

人によって副作用の程度は違う、とは聞いていたし、私の場合は前立腺が比較的小さいので、若干油断していた。しかしである、、。

まず、小線源治療が終了したあたりから、頻尿に悩まされることになった。

そして、頻尿だけなら、まだいいが、排尿障害がひどくなった。

外照射治療がスタートしてからは、それが更にひどくなった。

排尿障害とは、文字通り尿が出にくくなることだが、具体的にはここに書きにくい。(が、書いてみる)

下(しも)の話なので、下品になるのは許していただきたいが、

兎に角、尿が前へ飛ばない。

ゆるんだ水道の蛇口のように下へ落ちるだけだ。

そして、一番苦しいのは、尿意の切迫感があって、トイレに駆け込んでも、尿が出てくるのに5~10秒、時によっては30秒以上もかかることだ。

そして、そこにツーンというような痛みが加わる。

切迫感はあるのに出てこないのは、本当に苦しい。

更には、リンパへの外照射のお陰で、腸にも負担があるらしく、下痢が加わった。

つまり、今は頻尿、排尿障害、下痢、痛みの四重苦である。

 

私的理解だが、放射線でからだの臓器を焼いているということだろう。

焼かれている前立腺、膀胱、さらには、その奥にある腸が炎症を起こしている状況だからしかたない。

ガンとその元をやっつける為だ。

治療終了後、数日たっているので、これからは、徐々にこれらの副作用も解消していくものだと勝手に思っている。

逆に言えば、これだけ徹底的にやっているのだから、悪性度の高い私のガンでもやっつけられたのではないかと信じている。

 

以上、3回にわたり、前立腺ガンについて、私なりの理解と取り組みを書いてみた。

前立腺ガンの治療方法は、いろいろあり、悩む人が多いと思う。

そして、大体の場合、治療の選択は患者自身に委ねられるケースが多い。

これから治療を始める人の参考にしてもらえればありがたい。

 

チコが息を引き取った

 

在りし日のチコ

 

このブログで度々紹介してきたチコが、今朝、息を引き取った。

猫にしてはめずらしく、21年も一緒に暮らしてきた家族の一員だった。

大往生だったと思う。

最後は食事もままならず、やせこけてしまったが、、。

昨晩まで、何回も、一生懸命立ち上がろうとしては、自力では支えきれず、転けて、横になってしまう状態が続いていた。

 

そして、不思議だったことがある。

今朝早く、もう一匹の家猫の”リク”が、我々の寝室まで上がってきて、ドアをガリガリひっかいて鳴いてうるさかったことだ。

これは、リクが我が家に来てから、初めてのことだ。

チコの死を悟って知らせに来たとしか思えないのだ。

本当に不思議だ。

チコとリク

私の前立腺ガン(2)密封小線源治療 体験記

=続き=

手術台(診察台?)の上で麻酔から目が覚めた。

幹部にやや鈍痛があったが、我慢できないほどではない。

小線源を挿入する為に、針を何本か挿しているので、その痛みだと思った。

そして、私の第一声は、「何個はいりましたか?」だった。

立ち会った何人かの先生の一人から、41個ですという答えが返ってきて、やっぱり、そんなものかと思った。

通常、小線源治療において、挿入される線源は、50個~100個と言われている。

私の前立腺の大きさは、標準より小さく、ホルモン治療で更に小さくなっていた筈だから、41個という答えになんとなく納得した。

なぜだか、担当医は”手術”と言わずに、施術という表現をしていた。考えてみれば、確かに手術というほどのものでは無いのかと思った。(針を刺すだけのことなのだ)

 

施術の前日

まだ、コロナ下の入院だったので、付き添いは不可と言われ、一人で病院に出向き、入院の手続きを行った。

そしてその日は、簡単な検査と、担当看護師さんからのオリエンテーション、更に、麻酔医の説明があった。

ただ、それが終わると、あとは何もすることはなかった。(WBCが開幕して、夜は初戦の中国戦をテレビで観ていた)

夕飯はお粥で、寝る前に下剤を飲んだ。

つまり、この日は、翌朝の施術のための準備の為の時間だった。

 

施術当日

翌朝9時ごろ、手術着に着替え、病室から看護師さんと一緒に、別東の施術室まで歩いて向かった。この時はすでに、点滴のチューブが入っていたので、片手で、点滴の下がったスタンドをガラガラ引きながらだ。

部屋に入ると、顔見知りの担当医の他に、4~5人のスタッフがいたと思う。

そして、言われるままに、診察台に自分で横になって、作業の準備が始まる。

耳元で、「口の布マスクをとって、酸素マスクに変えます」という声が聞こえたのは覚えている。その時を最後に意識が無くなった。

時間にして、1時間ほどの治療だったが、目が覚めた時にはすべて終わっていた。

そして、ベッドに乗せられたまま、治療室から自分の病室まで運ばれた時、病室の時計は10時半ごろだったと記憶している。

 

ところで、この小線源治療の場合、病室は個室が決まりになっている。

なぜなら、私の体から出る放射線を、1日程度、管理する必要があるからだ。

(なので、通常上乗せされる個室の特別代金は、無料だった)

そして、部屋のネームプレートの横には、「放射線管理区域」という物々しい紙が貼られていた。(部屋の外には出られなかったので、実際には見ていないが)

 

点滴と尿のチューブが入っていたので動けないし、放射線管理という、ちょっと大げさと思える管理だったので、その日は、終日ベッドの上で過ごさなければならなかった。

看護師さんの定期的なチェック(検温、酸素飽和度、血圧に加え、溜まっている尿の色)があった。

私は、上半身しか体を動かせないので、テレビをみているだけだったが、丁度、野球のWBCの放送があり、(この日は第二戦の韓国戦だった)暇つぶしになって助かった。

 

施術翌日(入院3日目)

午前中に、体に付けていた二つのチューブが外れた。

午後、放射線技師が来て、特殊な機械で、部屋の中の照射線量をチェックした。私自身も壁際に立たされ、1m位離れたところから、放射線量をチェックされた。

そして、数値に大きな異常が無かった為、管理区域が解除され、普通の病室に戻った。

その後、自由に院内を歩けるようになったが、その時には、物々しい紙はすでに取り外されていた。

とは言っても、私自身からでる放射線量が気になるところである。

渡された小線源の小冊子には、

「胸のX線集団検診;一回当たり0.05mSv(ミリシーベルト)、胃のレントゲン;0.6mSv、胸部CT;6.9mSv.の被爆を受けることになるのに比べ、この小線源治療は、体表面から1Mで0.028mSv/時間ということで、非常に低い」

と書いてある。

また、飛行機でニューヨークを往復すると、被爆料は0.19mSvだそうだ。

私自身が、微量とは言え、放射線を出している事実が気になるところだが、日常の放射線被爆料については、いろいろ説明されてもあまり頭に入ってこなかった。

一つだけ確認したのは、私は猫をよく膝に乗せるので、猫に与える影響を聞いてみたが、そういうデータは無いが、全く問題ないだろうということだった。

そして、この体内の放射線は、2ヶ月ごとに半減していき、約1年後にはほぼ無くなるとのことだった。

 

退院(入院4日目)

朝食後、看護師さんの簡単な検査を受け、来たときと同じように一人で退院した。

痛みは特に無く、入院した時と体調は変わらなかった。

自分にとっては、大きな決断という小線源治療だったが、入院施術前後で、大きな変化は感じられず、少し拍子抜けしたような気持ちであった。

 

もっとも、私の場合は、悪性度の高いガンだったので、トリモダリティ治療(=ホルモン治療+小線源+外照射)の途中である。

約1ヶ月後から、放射線の外照射治療が始まることになる。

 

以上、2回にわたって、私の前立腺ガンに対する考え方、選択と体験を書いてみた。

小線源治療の施術自体は(4日間の入院は要するが)短時間で、手術のような大変さは無いと言える。

但し、副作用として、人によって軽い重いはあるが、短期間の頻尿や、排尿障害が起こる。これは、前立腺から放射線が出ているのだから、仕方ないといえる。

 

これから、前立腺ガンの治療を選択する人の参考になれば幸いである。