私の前立腺ガン

「読者の参考になれば」

昨年、2度目のガンとして、前立腺ガンになったと、ここに書いた。

前立腺ガンとはなんとも特殊な、わかりにくい病気だとつくづく思う。

進行が遅い病気なので、まず、治療が"悠長"だ。

検査や治療は一ヶ月単位で計画されていく。当事者としては、その間、病気が進行してしまうと不安になるが、そうでもないらしい。

つまり、長い年月をかけて治療していくことがこの病気の特徴なのだ。

そして、時間をかけているおかげで、幸か不幸か、考える時間がある。

しかも、今は便利なネット社会であるから、日々、私のアンテナにはいろいろな情報が入ってくることになる。

その結果、私自身に、前立腺ガンについての知識が、日々蓄積されていく。

そして、周りを見てみると、知り合いには、この病気に罹った人が結構いるのだ。

というわけで、この病気になった誰かの役に立つかもしれないと思い、勉強した知識と経験をこのブログに上げることにした。

 

「現在の状況」

私は前立腺ガンかもしれないと言われたのが昨年5月だった。以降、MRI、生検、CT、骨シンチなど、必要な検査を2ヶ月かけて行い、やっと7月にホルモン治療が始まった。

前立腺ガンのできる元凶は男性ホルモンなので、まず男性ホルモンを押さえることから始めたわけだ。

男性ホルモンは95%が睾丸でできるそうだ。なので、三ヶ月に一回、注射で薬を体内に入れ、男性ホルモンを抑えている。

残りの5%の男性ホルモンは、副腎でできるのだが、こちらは、毎日の飲み薬で抑えている。

ところで、人によっては、この注射の副作用が苦痛らしい。病院からもらった注意書きには、一般的な副作用として、肝機能障害、高脂血症血栓塞栓症、貧血、火照り、めまい、関節痛、性欲減退、等があったが、私には、性欲減退を除いては何も起こらなかった。今のところではあるが。

ただ、性欲減退については、確かにそうだなと思う。日常、男として性を、何も感じなくなった。(つまり、スケベ心が全く起こらなくなくなった)

そして、良かった点、なんと、年とともに薄くなってきていた頭頂部の毛髪が増え、皮膚が隠れて見えなくなった。男性ホルモンの影響(女性化?)恐るべしだ。

 

「PSA値=ガンの広がり度合い」

さて、前立腺ガンかどうかの目安になる最初の指標は、血液検査のPSA値というものである。ガンや炎症によ流れ出てくる前立腺に特有なタンパク質の一種で、PSAが4.00を超えたらガンが疑われる。

私の場合、ガン発見のきっかけとなったPSA(ガンの体積=元気度)の値は、当初、4.1だったが、ホルモン治療で11月には0.027、今年2月には0.007に減っている。

数値だけ見ると、もう何もしなくてもいいのではないかと思ってしまうほどだ。

だが、ホルモン治療は、ガンを根治させるのでは無く、冬眠させておく治療であるというのが、私の理解だ。

実際、人によっては、このホルモン治療だけを数年続けることで、治療が終わる場合もある。高齢で、あと10年程度ガンを押さえられればいいという場合は、それでもいいかもしれない。

前立腺ガンの10年生存率90%以上という根拠は、こういうことではないか。転移が無ければ、根治しなくてもいい場合があるのだ。

治療している間に、他の病気で死んだり、寿命が来てしまったりすることが多いのだろう。

だが、このホルモン治療でガンが抑えられなくなった時が、問題である。一般的に余命が長い人(若い人)は、手術や放射線治療でガンを治すべきであろう(転移が無いことが前提条件だが)

 

「グリーソンスコア(GS)=ガンの悪性度」

ガンのもう一つの指標である、グリーソンスコア(GS)は生検で採取した検体(ガン)の評価で、これによってガンの悪性度が決まる。

私の場合は10段階中8で悪性度が高いと評価された。

このGS値が高い悪質なガンは、活動が活発なので放っておけない。手術や放射線治療で根治を目指すことになる。(私の理解)

つまり、私のガンは、初期ではある(PSA値が低い)が、活発(GSが高い)なガンで、放っておけば、やがてリンパや骨に転移し、手が付けられなくなるかもしれない。

転移が確認されたら、摘出手術や放射線治療は役にたたない。体のどこに広がっているかもわからないので、手術や放射線も目標とする場所が決まらないのである。

 

「私の選択=小線源療法を使うトリモダリティという方法」

私は、高齢者に属するが、気持ちは高齢者ではない(?)ので、根治を目指したい。

幸い、転移は確認されていないので、治療方法が選択できる。

そして、根治させるための方法だが、、

この年なので、”あってもしょうがない”前立腺を手術でとってもよかった。

だが、近年はダビンチ(ロボット)手術全盛とは言え、やはり、全摘手術は体力を要するので気持ちが引ける。

それに、手術は後で尿漏れが厄介らしいし、ガン根治という意味では、放射線治療も全摘手術も、効果(再発しない確率)に差はないとのことなので、私は、割と早い段階から、”なんとなく” 放射線治療に決めていた。

そして、熟考を重ね、私は、放射線療法の中で「密封小線源治療」という方法を選んだ。

これは、近年、普及してきた方法で、簡単に言うと、放射線の出る小さな線源(直径0.8mmx4.5mm程度)を前立腺に埋め込み、直接内側から放射する方法だ。

施術は一時間ほど、全身麻酔で、50~100個の線源を前立腺内に埋込む。問題なければ、翌日から普通に歩けるはずである。

放射線量は、2ヶ月ごとに半減していき、約一年で消える。その間、通常の生活ができるし、副作用も、大きな問題はないようだ。

そして、外から当てるより、直に内部で当てる方が、絶対効果があるに決まっているし、余計な部分に放射しなくていい、というのが、私の”素人的”理解である。

問題は、、この小線源治療は、一般的には、悪性度が高いガンには適用外であるらしい。(私のガンは10段階中、8と悪性度が高い)

しかし、私が今通っている病院と担当の先生は、積極的にこの小線源治療を推進している立場で、トリモダリティという方法で、悪性度の高いガンに対しても、十分に効果が得られるという立場である。

そして私は、自分の治療を担当の先生に委ねることにした。

ただし、私の場合は、トリモダリティ治療(つまり、ホルモン治療+小線源治療+外照射治療の三つの併用)ということになった。

外照射は小線源の施術後、約1ヶ月してから始め、毎日通わなくてはならないが、15分程度の照射を15回、3週間で終了する予定だ。

 

いよいよ、来週から3泊4日の入院で小線源治療を行う。

体験記は、また後日。

 

ノラ猫のゴンが旅立った

このブログで、たびたび紹介してきた、ノラ猫のゴンが、我が家で息を引き取った。

一週間位前から急に元気がなくなっていたが、ここ2,3日は横になったままでトイレもままならなかった。

妻が体を起こして、水を飲ませて(その時は飲んだそうだが)、約一時間後に見にいったら、吐瀉物を吐いて、息絶えていた。

口の回りを拭いてやったときに、かすかに、かすれる声でニャーと鳴いたと妻は言うのだが、私にはわからなかった。

 

数年前、ゴンが我が家の前を通った時に、私が小魚を放りなげたのが初めての出会いで、以来、ゴンは我が家の周りをテリトリーとするようになった。

そして、他のよそ者のノラ猫とはち合わせするようなら、大きなうなり声をあげ威嚇するのだった。

ただ、不思議なことに、同じノラの”トラ”とだけは、すこぶる仲がよかった。家の前でいつも一緒にたむろしていた。

 

去年の10月ごろのことだ。

ゴンが、トラと一緒に家の中に入ってくるようになった。(トラはずっと前から我が家に入り浸りで、半ノラ状態であった)

この時、ゴンはノラ猫から脱却して、半分家猫(=もどき)になったのだ。

そして、夜は、毎日わが家ですごすようになり、やがて、体調のせいか、あまり外へは出なくなっていった。

最晩年の、”最後の冬”を、基本、暖かい家の中で過ごした。夜は暖房は切るが、トラと一緒に重なって、丸くなって寝るのが常だった。

ノラ猫として、死期を悟ったのだろうか、最後は人に見守られて、暮らしたいと思ったのか、、、これは、私の思い過ごしか。

 

一匹のノラ猫が死んだ。

何年生きたかわからない。どこで生まれたかもわからない。

だけど、確かにこの世に生まれてきた。

恐らくは、人間には歓迎されずに生まれてきた。

でも、人間界の片隅で、”ノラ猫”という境遇を、控えめに、けなげに、だけど ”強く” 生きてきた。

孤高のノラ猫だった。

名前は無かったが、私はゴンと名付けた。妻はゴンちゃんと呼んでいた。

そして、縁があって我が家にきて、最後には我が家の座布団の上で、安らかに息を引き取った。少なくとも、私たち夫婦に爪あとを残して。

 

ノラ猫だったので写真があまりない。

もっといい写真が撮れたはずだが、残念だ。そして、いつもトラと一緒の時が多い。

このブログに書き残すことで、”彼=ゴン”が確かに、この世に生きていた証(あかし)を残したい。

昔はきつい目をしていたが、最近はおだやかな顔つきになっていた。

いつも2匹は仲がよかった

 

 

初めて家の中に来た日

仲良く寝ていた。

これは、まだ安心しきって、寝ている時

 

今、トラは、ゴンが逝ってしまったことがわかるのか、さびしそうではある。

 

ノラ猫の最期を”看取る(みとる)”たびに、人間のエゴを思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

食道がん 秋野暢子さんのインタビューから思うこと

女優の秋野暢子さんが食道がんの闘病から復帰して、テレビでンタビューを受けている様子を拝見した。

医者から提示された治療は、全摘出手術か、化学療法+放射線療法の2択だったそうだが、秋野さんは後者を選んだ。そして、見事闘病生活から生還したということであった。

私は、同じがんサバイバーとして、心から、”おめでとう”と申し上げたい。

 

私の病名は”下咽頭がん”であったが、私のがんと秋野暢子さんの食道がんは、呼び方が違うだけで、同じものではないかと感じている。

どちらも、のどの全摘出手術によって声帯を失う部位のがんである。

そして、私も、秋野さんも、その全摘手術を選ばなかった。つまり、QOL(生活の質)を選んだ。

 

声帯が無くなり、声が出なくなるのはショックなことであるし、生活が一変する。

しかし、問題はそれだけではない。

新しく首に穴を開けて気道(呼吸)を確保することによって、普段、何気なくできていた当たり前のことができなくなる。

まずは、匂いを感じなくなる、そして風呂で肩まで浸かれなくなる。

首の気道の穴に水が入ったら、肺へ直結だ。勿論、シャワーもNGだ。

 

咽頭がんの5年生存率は40~50%と決して高くない。それでも、私は、何としても全摘手術は避けたかった。

そして、運よく、内視鏡による経口手術を受けることができた。

私の場合、早期発見の表層がんではあったが、罹患範囲が広いのがネックであった。

最初の大学病院では、秋野暢子さんと同じ、全摘手術か、放射線治療かの二者択一を提示された。(私は腎臓機能の数値に問題があったので化学療法は除外された)

幸いにも、早期発見のきっかけになった地元のクリニックの先生から、別の大学病院の先生を教えてもらった。

そして、その大学病院の先生を頼って、セカンドオピニオンを受け、かろうじて「生体を温存して、がんの摘出手術が出来ます」といってくれた先生にたどり着くことができたのである。

切り取った私のは、当時、その病院で扱った内視鏡手術でも、稀有な大きさ(広さ)だったとあとで聞いた。

ケースは違うが、秋野暢子さんの場合も、QOLを選んだ。そして、本人に合った適切な化学療法を受けることができたと推察される。

インタビューを見て、良い先生に巡り合えたのだということが感じられた。

勿論、病状によっては、望んでもQOLを選べないケースもあることは理解している。

私は運がよかった。そして秋野さんには強い信念がった。

 

私は、幸いなことに、3年半経過しても、下咽頭がんからの再発や転移は無く、今、このブログを書けている。(前立腺がんという、新しいがんの闘病中ではあるが)

 

後悔しない選択をする大切さを思う。

国境の無い南極

私たち日本人は、四方を海に囲まれている国で暮らしている。

普段は国境を意識しないで生活がなりたっている。一般的には国境を意識するのは、国際空港での出入国時だろうか。

この世の中に、なぜ、戦争が無くならないのか?

答えは簡単、人間が勝手に作った「国境」という”縄張りらしきもの”があるから。

人類は人類で一つのくくりなのに、なんと身勝手なことである。

宇宙飛行士の毛利衛さんは「宇宙からは国境線が見えない」と言った。

国境は人間が勝手に地図上に作った線なのだから見えない。

だが、人類は馬鹿みたいにこの見えない線に固執する。

だから、いさかいが絶えない。

 

ところで、「南極大陸」はこの地球上で、唯一、国境の無い大陸だとテレビのニュース番組でやっていた。なんで、人類は南極大陸をお手本にできないのだろうか。

南極大陸でできるのなら、他の4大陸でできてもいいはずではないか。

 

国境の無い地球、、、なんて甘ったれたことを言っているのと言われそうだ。

 

ところで、昔、20代の終わりに、仕事で国境の町に住んでいたことがある。

アメリカのテキサス州エルパソという砂漠の中の小さな町だ。

そして、西部劇で有名なリオ・グランデという川を挟んで、反対側にメキシコの町ファーレスがある。このアメリカとメキシコの国境は、富める国と貧しい国の国境としては、世界最長だと聞いたことがある。

であるから、いろいろ問題が多い。

ボーダーパトロールという組織があり、国境の警備にあたっているが、メキシコ側からアメリカへの密入国者が絶えない。

ウエットバックと呼ばれる人たちは、川を渡って入ってくる密入国者たちのことである(背中が濡れているから)。リオ(川)グランデ(大きい)は名前とは裏腹に狭い川なのだ。

トラックの荷台が二重になっていて、底には何人もの密入国者が並んで横になっていたという話もあった。

前に、トランプさんがこの国境沿いに壁を作ると言っていたが、その後どうなったのだろう。

まあ、無理だとは思っていたが、本気でそれを声高に唱えるトランプという人は、どうなんだろうと思う。

何しろ、ざっと見たところ2,500km以上はあるのではないか?日本の南北の距離より長いと思う。完成したら、アメリカ版の万里の長城になるだろう。

 

そんな国境の町に仕事で3年ほど住んでいた。

(詳細は、このブログの ”古き良き時代のアメリカ” を参照されたい)
当時はNAFTA北米自由貿易協定)という米国、カナダ、メキシコの三国間で結ばれた経済協定(税制優遇制度)があった。

メキシコ側の工場で製造した部品をアメリカ側に輸入して、アメリカの各得意先へ直接供給するというのが私の主な仕事だった。

したがって、リオグランデの橋の真ん中にあるイミグレーションは、週に何回も行き来していたものだ。当時は、国境を超える度に貧富の差を明確に感じていたことが印象に残っている。

国境がなければ、誰でも自由に行き来できていたら、この状況はどうなっていたのだろうか。

確か、トランプさんが大統領選で負けたのは、アリゾナ州を落としたのが痛かったのだと思う。アリゾナはメキシコをはじめとするヒスパニック系の人が多い。

一方、欧州EUは、詳しくは知らないが、パスポートなしに行き来でき、通貨も統一されている。

EUは、国境の無い状態に少し近づいているのだろうか?

 

「南極には国境がない」とテレビで話していたので、連日のロシアのウクライナ侵略のニュースと絡んで、とりとめもない話になった。

 

 

 

 

愚痴(その1)車の運転が下手になった件

高齢者の車の事故のニュースが後を絶たない。

わかっていることではあるが、歳を取ると、当たり前のようにできていたことが、できなくなってくるのだ。

事故のニュースを見るたびに、他人(ひと)ごとではいられないと思う今日この頃である。

ところで私は、50年以上の運転歴である。

何しろ、トヨタカローラから始まって、何台もの車を”とっかえひっかえ”乗りついできた。ある時は、中古車ではあるが排気量7800㏄のポンティアックスポーツタイプにも乗っていて、信号待ちで並んでいた車に、出足で負けたことはなかった。

車の運転には”それなり”の自信があった。少し前までではあるが。

50年間、無事故、無違反できた!と言いたいが、昔はそれなりに小さな違反で切符を切られることは”まま”あった。幸運なことに、大きな事故はこれまで起こしていない。

”まま”あった小さな違反は、スピードオーバーと駐車違反だが、すべてアメリカでのことだ。(なんといっても、日本の免許証は ”ずーっと” ゴールドのままである)

酒席でのプチ自慢?は、LAから車でラスベガスへ行く時、=砂漠の中を飛ばし続けて、5時間ほどかかる=スピード違反の切符を2度も、同じ警官に切られたことである。

砂漠の中の一本道である。いくらでもスピードが出てしまうのだ。途中休憩中に追い越されたのだろう。なんといっても、むこうはヘリとの連携がすごい。

あまたなる(?)運転歴の私ではあるが、最近、車の運転も昔のようにはいかなくなってきた、というか、むしろ下手になったと実感するこの頃である。

必要以上に、運転に注意深くなった。判断のスピードが遅いのだ。

最近は、スーパーの駐車場にバックで停める時など、何回も切り返すようになった。そして、やや曲がったまま駐車することも多くなった。

得意だった縦列駐車にも昔のような、思い切り(=勢い)がなくなった。

運転走行時の機敏性もなくなったし、知らない道の夜の運転は避けたいと思うようにもなった。

そして、昔は苦にならなかった長距離の運転もつらくなってきた。

時代は巡る。

若い時は、年寄りの運転に苛立つこともあったが、いざ自分がその歳になると、こういうことだったのかと思う今日この頃である。

 

ところで、話は変わるが、

先日、懸案だったドライブレコーダーをやっと取り付けた。その際、無料サービスだということで、見積もってもらったら、7年近く乗っている車が意外に高く売れるということが分かった。

年数のわりには、走行距離が少なかったということもあるのだが、最近は中古車が高く売れるらしい。

わが愛車は、3回目の車検もまじかで、タイヤ交換が必要ということもわかっていたので、近々、それなりの出費が予想されていた。そこで、車検の前にこの車を売って、それを元手に、カーリースもいいかなと思い、近くのディーラーに相談に行ってみた。

しかしである。丁寧に説明を受けて、結局わかったことは、65歳以上は保証人が必要だということ。つまり、カーリースとは、ローンを組んで車を買うのとあまり変わらないようなのだ。

リース期間中は、その車を乗り切ることを前提として、支払いを続けていくことが要求されるから、ある程度の歳になると保証人が必要となる理屈なのだろう。

(支払い能力はさておき)70を越しているわが身に、「あなたは、あと何年車に乗り続けられますか?」と問いかけられているような気がした。

さあ、あと何年だろうか?と考える。

 

結局、カーリースは止めて、とりあえず、今の愛車にもう少し乗ることにした。

 

 

 

ジャカランダ

ジャカランダが咲かない

 

皆さんは、ジャカランダという木をご存知だろうか?

おもに熱帯地方に分布する落葉高木樹で、初夏に紫の花を咲かせる。

亜熱帯を思わせるような最近の日本の気候ではあるが、それでも、ジャカランダが育つには厳しいようで、なかなかお目にかかることが少ない。寒い冬には弱い木である。

それでも、関東近辺でこのジャカランダの大樹が有名な場所をいくつか知っている。

例えば、熱海の海沿いや横須賀の歯科大学構内の大木になったジャカランダが有名である。


ジャカランダの魅力は、春になると一斉に咲く満開の紫の花の美しさであろう。

日本の桜の美しさは有名だが、満開のジャカランダの紫の花も、桜に負けじと美しい、、と私は思う。

昔、LAに住んでいた時の話であるが、春になるとLAの住宅街には、あちこちにこのジャカランダが咲き乱れていた。桜のように花だけが目立つ木なので、木々に咲き乱れる紫の花はなんとも美しい限りだ。

(因みに、ロサンジェルスのことをロスと約す人がいるが、これは私には違和感がある。スペイン語からきたロス・エンジェルス「天使たちの街」の意味のロス(Los)はエンジェルスの前につくただの冠詞で無意味だからだ。約すならLAだ)

 

そして、なんと妻が100円ショップでこの苗木を買ってきて、鉢植えから庭に移し替えて4~5年経つ。わが家は神奈川県だが、台風にも冬の寒さにも耐え、これが、2メートルくらいの高さに育っているのだが、なかなか花が咲かないのである。

もうすぐ年越しである。今年は、コロナからは抜け出せず、ロシアのウクライナ侵攻など暗い話題が多かった。私自身も、前にここに書いたように、二度目のガンにかかった。

来年はどんな年になるだろうか。

せめて、春にはジャカランダに咲いてほしいと思うのだが、難しいか。

ノラ猫を見つけたら

ノラ猫を見つけたら、やってはいけない行為として、次の4点がネットにあった。

1.無責任なエサやり

2.不用意に触る

3.むやみに追いかける

4.連れ帰る

 

さて、わが家のことである。

3.は身に覚えがない。4.は(冬の寒い夜などに)時々ある。

そして、

1.から始まって、2.に到り、これを繰り返した結果、わが家には、2匹のノラ猫が住み着く状態になってしまった。




庭の踏み石から、縁側沿いに入ることができる部屋は、あまり使っていないこともあって、=成り行きで=2匹のノラが出入りしている。

そのうちの一匹、トラは、前にも紹介したが、一度は隣家が飼うことになって、避妊手術も隣家が行った。

しかし、小さいお子さんたちが居たことや、先住ネコとの相性が悪かったことで(多分、本人の意向で)家出して、隣家の電話番号があるプレートを首輪につけたままで、ノラ猫生活に戻った。

そして、従来の人懐っこい性格から、わが家に入り浸るようになった。

最近では、夜になると、ほぼ必ずわが家に帰ってきて、居間の窓にドンと飛びつく。

この壁ドンならぬ「窓ドン」は、帰ってきたから入れろと言う、いわゆる『ただいまコール』である。

その為、わが家では、トラが帰ってくるまで、起きて居間の雨戸は閉めずにいるのだ。

 

そして2匹目のゴンは、我が道を行くといった風貌の”孤高”のノラ猫であった。

わが家の庭は、たまたまゴンの縄張りであり、通り道だった。そして、他の猫と出くわすと、赤ん坊が泣いている時のような、大きな甲高い唸り声で威嚇するのだ。

しかし、不思議なことに、新参者だったトラとは相性がよかった。

二匹が仲良くまったりしていることも多い。(遠い親戚なのだろうか?)

そして、私が興味本位に投げた猫用の煮干しから、私との関係も少しづつ近くなっていった。(これは前に書いた)

そして、冒頭の1.と2.である。

もっとも、ゴンと2.に至るまでには相当の時間を要した。触れるようになったのは、つい最近のことである。

しかし、垣根が取れる(=信頼関係ができる)と、あとは早い。

ゴンは年のせいか、一度部屋に上がると、寒い時は、なかなか外に出ようとしない。

部屋の中の、座布団(片付けようと思って積んでいた)の上が、「我が場所」と決めたふしがある。

ゴンが座布団の上でくつろいでいる様子は、まるで、殿様のようである。

 

と言うわけで、私のノラ猫の扱いは、世間的には失格である。

 家の中    

        ↓

 そして、、、

Zzzz~

以上。