昔の写真を整理していたら、勝鬨橋が開いている状態でのモノクロ写真が出てきた。
今では開くことは無くなったが、昔は、勝鬨橋は日に何回も開閉していた。
当時は、東洋一の可動橋として、隅田川の最下流で、月島地区と築地地区を結び、大きい船舶が通行する度に橋の開閉が行われていたのだ。
橋が上がっているあいだ(多分、20分程度だと記憶しているが)、車やバスや都電が、両側で、文句も言わず、閉まるまでじっと待機していたのである。
勿論、当時は、路面電車の軌道も橋に敷かれていた。都電は、今でこそ荒川線しか残っていないが、昔は都内のあちこちを走っていた。
今から思うと、何とものんびりした時代の話である。
当初、橋の開閉は一日5回も行われていたが、やがて、上を通過する車の交通量の増加と共に、開閉回数が徐々に減っていった。
私自身は、朝、昼、晩の一日三回、決まった時間(9時、12時、3時だったと思う)に開いていた時の印象が強い。
ところで、橋が開く時は、警報サイレンが鳴り響くので、近くの住人は、サイレンが時計代わりになって、時間が把握できてとても便利だった。
私は子供の頃は、勝どき橋のたもと近くに住んでいたので、この橋とその周りは格好の遊び場でもあった。橋の両側のたもとには、小さな休憩場所というか、狭い公園のようなスペースがあって、小さい子供には恰好の遊び場だったのだ。
この、勝鬨橋が跳ね上がっている光景は、勇壮で、絵になった。
古き良き時代、日本が復興を遂げつつある時代のシンボル的存在だったのかもしれない。モノクロ写真しかないのが、残念だが、そういう時代なのだ。
勿論、最近のイルミネーションが施された勝鬨橋も、それなりにきれいではあるのだが。
一時、この動かなくなった可動橋を、普通の橋に架け替えようと言う話が上がったと聞く。反対運動で取りやめになったとのことだが、私は、本当によかったと思う。
PS。
下は、一緒に出てきた、まだ上に首都高速が走っていない日本橋の写真。
”空が見える”日本橋である。