日本橋と紅葉川中学校

現在、東京の日本橋の繁華街の中心に「日本橋プラザビル」という、オフィスやテナント、飲食店などが入る多目的ビルがある。

日本橋高島屋デパートから正面の大通りを渡ってすぐ、丸善の裏隣りで、東京駅からも歩いて数分という好立地の場所である。

その昔、この日本橋プラザビルがあるこの場所には、「紅葉川中学校」という公立の中学校があった。今思うと、中学校の立地としてはなんとも贅沢な話ではある。

この紅葉川中学は、1974年に他の学校と統合されて、東日本橋に移り、「紅葉川」という情緒ある名前は消え、第4中学となった(らしい)。

この、”今は無い”「紅葉川中学」は私の母校であった。

日本橋のど真ん中(?)にあったことから、通っていた生徒の中には日本橋の商家の子供も多かった。同級生には、今でも、名前を出せば結構有名な、老舗の蕎麦屋の息子やふとん店の娘等がいた。

私自身は、商家の子供ではなく、父が地方公務員だったが、どういうわけか、本来行くべき地域の中学ではなく、勝どき橋の向こう側の月島からバスでこの学校へ通っていた。いわゆる越境入学である。

紅葉川中学は中央区の区立中学ではあったが、立地が良かったせいか、あるいは優秀な学校という評判があったせいか、越境入学の生徒が多く、電車で遠くから通っていた生徒も多かった。

当然、それほど大きくない敷地ではあったが、中には校庭もプールもあった。もっとも、プールは夏場だけで、使わない時期には蓋をして校庭の一部として使われていた。

入り口は、正面と裏門があって、裏門は校庭に直接入れるのだが、東京駅から近いのでこちらを利用する生徒が多かった気がする。その裏門を出てすぐ左側に、有名な丸善という本屋のビルが隣りにあった(今では、改装されて立派なビルになっているが)。

紅葉川中学は、そんな街中にあったので、登下校の際に寄り道するところはあまりなかった。丸善が私たちが帰りに道草できる唯一の場所でもあったと思う。

当時の丸善の三階は、洋書専門のフロアだったので、外国人の客が多かった。

そこで、中学一年からの英語教育で、英語を覚えたての私たち(悪仲間)は、実際に英会話を使いたくなって、この丸善の三階をうろうろした。そして、”こわくなさそうな”、外国人を見つけては、覚えたての「ワットタイム・イズイットナウ」というフレーズを話しかけていたものだ。

単純ではあるが、覚えたての英語が通じることがうれしかったし、ちょっとした冒険でもあった。今思えば、話しかけられた方は、何ともはた迷惑な話である。

そして、山登り(と言ってもハイキング程度ではあるが)、に夢中になったのもこの頃であった。男女5,6人のグループで、紅葉川マウンテンクラブ(MMCと呼んでいた)なるものを作り、MMCとプリントされたお揃いのトレーナーを作ってみたりした。

そして、頻繁に、丹沢、奥多摩尾瀬など、東京近郊の日帰りハイキングや、一泊二日程度のキャンプ巡りをしていた。単純に、女子と一緒に出かけられることが嬉しかった面もある。

と言うわけで、私は、中学時代の”多感な”時代をこの中学で過ごした。甘酸っぱい思い出も含め、数々の思い出が残っている。

そして、ありがたいことに、今でも、この頃からのつきあいのある友がいる。(つまり、50年以上のつきあいであるが)

 

そして、更に、日本橋と言えば、私が長年勤めた会社があった所でもある。

勤務先の本社が地下鉄の日本橋駅に隣接していた。従って、退社をするまでは、長年、東京駅から日本橋へ歩いて通っていた。それほど、日本橋、特に東京駅から、地下鉄の日本橋駅界隈は、馴染みが深い。毎日のランチも、頻繁な夜の飲み屋も、当然、日本橋であった。

ところが、である。近年は、日本橋地区の都市開発が目覚ましい。古いビルが壊されて、巨大な新しいビルに建て替えられ、街の様相は変貌してきている。

古き良き時代の日本橋が無くなっていくのは寂しい限りである。ちなみに、良くランチに利用していた町中華の店が無くなっていたのにはがっかりした。野菜たっぷりのタンメンの味が懐かしい。

 

私は、中学時代の思い出や、社会人時代の数々の情景が重なって、変わって来た、そして変わっていく、日本橋という街への思い入れが特に深い。