古き良き時代のアメリカ 心象風景その2 国境の街

エルパソはロッキー山脈の南端に位置しており、街から少し離れて郊外に出ると、昔の西部劇に出てくるような荒涼とした風景が広がっている。日本のように四季を感じる自然は無い。

どちらかと言うと夏か冬かであり、夏には40度以上の暑い日々が続き、冬には雪も降ったりする。そして砂漠に生えている草は冬に枯れると根から離れて街の中を転がっていたりする。昔の西部劇の決闘シーンで風が吹くと転がっているあの枯れ草である。

エルパソで暮らし始めてからの時間の流れは速かった。最初の1~2か月はあっという間に過ぎていった。それは何もかもが日本で過ごしていた生活とは違っていたからで、大袈裟に言えばいきなり異世界に放り込まれた感じであった。40年以上も昔のことであるが、当時の心に受けた衝撃は鮮明に覚えている。

エルパソはテキサスの片隅の小さな街ではあったが、生活文化のレベルが日本より10年以上進んでいると感じたものである。そしてとにかく広い。道もビルも駐車場も何もかもが大きく、広いのだ。

ガソリンの価格がまだガロン(約3.8リッター)1ドルを切る時代である。当時は省エネも声高に叫ばれる前で、街を走っている殆どの車は”ガタイ”が大きい、昔の典型的なアメリカ車であった。

しかし国土が大きいということは、国力の条件でもあるのだ。私が慣れない左ハンドルの大きなアメリカ車を運転しても、道もパーキングも広いから何の不自由も感じなかった。およそ日本のようにバックで駐車するという習慣もないのである。

更には車社会で、建物と建物の間隔が離れているため、道に人が歩いていることは殆ど無いから歩行者を気にすることがあまり無い。非常に運転しやすいのである。

エルパソにはメキシコと往来できる国境の橋とイミグレーションがあった。

いくつかの日系企業も、北米自由貿易協定(NAFTA)を利用してメキシコ側に工場を誘致しており、低賃金のメキシコで製造した製品をアメリカへ輸入してアメリカ市場に販売していた。メキシコ政府もファーレスをアメリカ側への製品供給基地として工場団地を整備しており、言わば、エルパソとファーレスは一体として発展してきたのである。

私の勤務していた会社も電子部品をファーレスの工場で製造し、エルパソを経由してアメリカ全土へ供給していた。そしてファーレスの工場からエルパソへ製品を輸入し、一時保管しておく倉庫と、全米の各地域の得意先へ製品を出荷する拠点としての配送事務所が、国境沿いに必要だったのである。

とは言え、アメリカとメキシコの国力の差はいかんともしがたい。エルパソの生活レベルは、日本より10年以上進んでいると感じるほど近代化が進んでおり、街も高速道路も整備されているが、一歩メキシコ側に入ると景色は一変するのだ。

ファーレスの街の主要道路は舗装されてはいたが、穴ぼこだらけで車の運転には苦労したものだ。そして、一歩裏へ足を踏み入れると景色は一変するのである。ファーレスで新車が走っているのを見たことは、全くと言っていいほど無かった。

そして、当時は国境を渡る橋の上では、イミグレーションを通過する為の車の渋滞がいつも発生していた。その橋の上では、炎天下に乳飲み子を背負った女性や子供たちが、手造りの飾りを売り歩いていたり、渋滞している車の窓を拭いて小銭を稼ごうとしているのであった。

彼らは大体は煙たがれ、無視されるのだが、1日1回、1クオーターでも稼げれば、生きていく足しにはなる。私も車に寄ってきた子供が、汚い雑巾でフロントグラスを拭いてお金を要求するという場面に何回も出くわしたものである。

つまり、メキシコ側の街では、ただ生きる為に精一杯な人達がほとんどであると言う印象であった。

そしてリオ・グランデ(国境の川)を泳いで渡ってアメリカへ密入国する人間も後を絶たない。一説には国境を越えてきたトラックの床底を剥がしたら、二重の床に人がズラリと寝ていたという話もあった。彼らは結局、国境警備隊に見つかっては追い返されることになるのだ。だが、何回追い返されても、アメリカの最低賃金とメキシコで稼げる賃金レベルとは大きな開きがあり、魅力なのだ。

そういう生きていくために必死な人々を見たり、話しに聞いたりすると、私はそれまでの自分の生き方を考えてしまうのだ。振り返ってみて、なんとくだらないこと、無駄なことに一喜一憂してきたことか、もっと人が生きていく上でのこだわりや考え方の枝葉末節は捨てて、シンプルな生活を営んでもいいのではないかと考えたものである。(続く)

 

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エルパソのフリーウエイ(国道10号線)現在

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現在のイミグレーション(昔とはだいぶ違うが)