シンガポールは、清潔な都市国家であるが、一歩大通りから裏へ入ると、表情は一変する。清潔な都市のイメージとは真反対の、昔ながらの庶民生活を感じさせられ家並みもあって、独特な趣を醸し出している。
人口の75%は中国系であり、それにマレー系、インド系、アラブ系の人々が加わった多民族国家である。狭い国土の中に、中華街やアラブ街等があり、各々が独自の文化を守りつつ暮らしているのだ。
因みに、どこの国にでもありそうな、いわゆる”日本人街”はない。(私が住んでいた頃の話であるが)
但し、街のあちこちに日本食のレストランがアメーバのように溶け込んでいた。とんかつ屋だったり、ラーメン屋だったり、タコ焼屋だったり、回転ずし屋だったり、あるいは、高級ホテル内の和食レストランだったり。
オーチャード通りという、日本で言えば、銀座通りとでも言えるような街の中心には、高島屋も、伊勢丹もあった。だがこれらのデパートはほとんど現地化していて、日本のデパートというイメージは殆どない。かろうじて、地下の食品売り場に日本食の材料を売っている程度であった。
さて、シンガポールは国全体が観光立国なのだが、中にあるセントーサという島には、いろいろな観光施設が集められていて、島全体が観光に特化されている。
今では、私が居た頃には無かったユニバーサルスタジオがこの島に誘致されていたり、カジノセンターも作られたと聞いているので、だいぶ様相は変わったかもしれない。
そして、そこには歴史博物館があり、年代別に、シンガポールの歴史を展示する部屋があった。その中には、日本軍が侵略してきた(降伏した?)当時の様子(確か、山下大将と日本軍幹部だと思うが)を表した蝋人形の部屋があったりする。日本は第二次世界大戦で、この国を一時的に、統治下に治めた歴史があるのだ。
こう言う侵略の歴史を経験した中で、シンガポール人が日本人に対して思う感情が、どんなものだろうと思ったりするのであるが、お隣の韓国や、中国が日本に対する感情とは少し違うように感じたのは、不思議であった。
私がシンガポールで仕事をしていたのは、2000年代始めの僅か2年足らずであるが、その後もシンガポールは、進化し続けている。ニュースや写真で見る限り、だいぶ街の様相も変わった。
ユニバーサルスタジオを誘致し、マリーナベイサンズという大きな船がビルの屋上に乗ったような大きなホテルを作り、初めてカジノ施設を誘致したりして、外から見ているだけでも、街の変化が止まらないように見える。
アジア最大のハブ空港を作り、アジア最大の港湾設備を整備し、観光を誘致し、産業を誘致し、変化し続ける国がシンガポールという国である。
資源が何もない小さな島国は、創意工夫で、変化し、進化を続けていなければ、衰退して終わってしまうのだ。必死にこぎ続けなければ、倒れてしまう自転車のように。
資源が無い島国ということでは、、同じことはわが国にも言えるのではないだろうか。
それにしても、である。このシンガポールの発展ぶりは、奇跡的である。
繰り返しになるが、分離独立後、わずか50年しかたっていないのだ。時の首相であったリークアンユーは、泣く泣くマレーシアから分離独立を決断したと、回顧録で読んだことがある。その初代首相のリークアンユーを、私自身がレストランで見かけたこともあるくらいである。
一党支配による社会主義国家ということもあるのだろう。
細かいことで言えば、街の清潔さを意識してチューインガムの持ち込みを禁止したり、熱帯地方特有のデング熱を防ぐために、媒体となる蚊の発生を防ぐ為の法律を作ったり、自由主義国家では考えられないような政策を、国民が納得して、必要な不便さを受け入れていく国、シンガポールはそういう国なのだ。
私が暮らしていた時には、(名前も場所もはっきり覚えていないが)ある政府の役所の一室に、シンガポール街の未来像のミニチュア模型が展示されており、そこには、計画中のビルや公園など、10年後の姿が再現されていた。
すなわち、この国の未来の姿を誰でも閲覧できたのだ。
このミニチュアは、今でも更新され続けているのだろうか。
計画中の、シンガポールの近未来像を見てみたいものだ。
以上。