チェ・ゲバラの生き方

最近、チェ・ゲバラに関する本を読み直している。

人の生き方は様々だが、少なからず人に感銘を与える生き方(死に方)をした人はそんなに多くは無いと思う。

貧しい民衆の為に大国主義と戦い、命を革命の為に捧げたゲバラの生き方に、私は感銘を覚える。

チェ・ゲバラは、勿論、キューバ革命の英雄で、ベレー帽を被り髭面の精悍な顔が有名である。過去の人ではあるのだが、それほど昔の人と言うほどではない。

なので、数多くの資料や写真が残されている。

紙質:マット サイズ:100mm x 148mm

ゲバラは、キューバ革命後わずか半年後の1959年の夏、31歳の時に来日して、広島の原爆資料館も訪ねている。その時、「君たち日本人は腹が立たないのか」と案内の職員に問いかけたとか、又、「平和の為に断固として戦うにはこの地を訪れたほうがいい」と妻にあてた絵葉書に書いていたとのことである。

私が驚くのは、ゲバラ自身はキューバとは関係ない、南米アルゼンチンの裕福な家庭に生まれた医者であったということである。

ブエノスアイレス大の医学生であった時に南米を旅し、圧制に苦しむ民衆の姿を目の当たりにして、革命思想に目覚めていく。そして、2回目の南米から中米への旅で、メキシコの地でカストロ兄弟と出会い、カストロ兄弟と共にキューバ革命に立ち上がることになるのである。

そして1959年1月にキューバ革命政権が樹立する。しかし、アメリカの覇権主義に対抗してできた社会主義の小国は、当時の社会主義の大国であったソ連にも翻弄されることになる。

そしてチェ・ゲバラは、ソ連帝国主義的搾取の共犯と批判して、ソ連からも疎まれることとなる。当時、ソ連は革命成就後のキューバの最重要貿易相手国だった。

カストロゲバラキューバの建国までは盟友であったが、キューバという独立したばかりの小国を率いるフィデル・カストロ(兄)の立場としては、相容れぬ考えであった。カストロソ連の圧力に相当悩んだに違いない。

ゲバラは最終的にはカストロと袂を分かち、自ら政権の要職を捨て、キューバを離れることになるのだ。

キューバを離れたゲバラは、再度、革命家として生きることに身を投じた。

そして最終的には、ボリビアの奥地で、ゲリラとして政府軍に捕まり、銃殺刑で短い生涯を閉じることになる。

処刑される際、自分を撃とうとしている兵士にしっかり狙えと言ったとか。

1967年、ゲバラ39歳の時であった。

そしてソ連が消滅した6年後にゲバラの遺骨がボリビアで発見され、キューバの首都ハバナへ移送され、盛大な国葬が行われた。

ゲバラは、あくまで南米の貧しい人々を、大国主義から解放することに心血をそそいで、ゲリラとして生き、そして死んだ。

私は、このチェ・ゲバラの生き方と、トランプさんの生き方をどうしても比較してしまうのだ。